米国の銃器保持率について社説と中面記事で数値が異なる,という点について毎日新聞社から以下の回答があった。
社説の銃所持率は、「銃暴力を防ぐブレイディ・キャンペーン」の中のデータを用いました。出典は、シカゴ大学が98年に発表した数値で「米家庭の推定39%が銃を持つ」というものです。二つの異なる面で違う数値が記され、混乱を招いてご迷惑をおかけしました。
社説のデータに調査年月を記すか、あるいは数値を一つのソースに絞るべきだったかもしれません。
回答をくれたのは外信部の人間である。外信部というのはおそらくスイスの記事に関与した部署であろう。回答に対して礼を言ったが,実はこの回答にも2つ異論がある。
ひとつは「数値を一つのソースに絞るべきだった」というものである。「一つのソースに絞る」のではなく,最新のデータで記すべきだからである。社説は9年前のデータで他方は昨年のデータである。どちらが信頼度が高いか明らかだろう。
いまひとつは,古いデータを使った社説担当者が連絡をしてくるのが筋だからである。
もっとも後者は社内の力関係なのだろうから特に言うべきでもないか。
米国の大学での乱射事件に関しての記事である。
18日の毎日新聞の国際面とでもいうのであろうか,本紙中面に「スイスでも規制の声」と題した記事で「家庭での銃器所持率はスイスが35.7%で,32%の米国を上回って世界一だった」とあった。平和のイメージが強いスイスも,その実,武装中立国家であったことが改めて認識されたのである。そして米国が32%という数字も頭に入った。
ところが同じ新聞の社説では「米国の4割の家庭に銃がある」としている。
ん?
どちらが正しいのだろう。
前者は出典が明らかで「チューリヒ大学の昨年の統計」とあるが,社説では「銃規制運動組織によると」というだけでいつの統計かは記していない。現在4月であるから今年の統計ではないだろう。
邪推するに,社説は「銃社会の米国は恐ろしい」ということを強調したいがために4割としたのではなかろうか。しかし,これは極端に言えば西部開拓時代の保有率を持ち出して,それこそ「8割の家庭に銃器がある」とするようなものではないだろうか。
いくら強調したくとも,そしてその強調したい方向性は正しいとしても,メディアは「記事の操作」をしてはいけない。
表現として「50%もある」「50%しかない」のどちらを使うかは自由だし,どちらの表現を使うかで記者の思い入れも分かるが,社説のような数字での説得はしてはいけないのである。
もちろん「社説は銃規制運動組織のデータに基づいた」と言うなら,一番ホットな話題に対して,社内の記事チェックの甘さ(スイスの記事を無視)を露呈しているのだから,それはそれで逆におそまつである。
「合成麻薬8万錠密輸図る」と題した15日(日)の毎日新聞から。
「成田国際空港から麻薬8万錠を密輸しようとしたとして日本人母娘が逮捕された」という記事である。この記事を読んで感じたのは,日本でもそんなに合成した麻薬があったのか。どこで造って,どうやって持ち出そうとしたのだろうかと,いうことであった。
ところが記事は最後に「逮捕された母娘はオランダからフランクフルト経由で持ち込もうとして東京成田税関支署の職員に取り押さえられた」とある。
??
いったいどっちなのだ。密輸出なのか密輸入なのか。記事の出だしは間違いなく「成田国際空港から密輸しようとした」とある。この「から」は何であろう。
あえて想像をするなら,税関を通るまでは成田国際空港は海外扱いなのであろうかということである。つまり成田国際空港をフィリピンと置き換えれば分かりやすいのだが・・。
しかし,いずれにしてもこの記事記述はおかしい。
少し古い話ではあるが,17歳の女子高校生が母親にタリウムを飲ませ続けていた事件について「家裁が医療少年院送致処分を言い渡した」という毎日新聞記事で,少女は「僕がやった」と弁護士に認め,また少年審判でも事実を認め「申し訳ありませんと謝罪した」と,記者の署名入りで結んでいる。
問題は,「僕がやった」という表現をしてよいかということである。仮に日常会話で少女たちが僕と言おうがオイラと言おうが,あるいは本記事のように弁護士にそう言ったとしても,性同一障害が論点になっていない事件での一般紙記事では17歳の少女は「私」と記すべきではないかということである。
記者は「少年院」という用語に引きずられ勝手に「僕」としたのではないか。さらにうがった見方をすれば「申し訳ありません」というのも17歳の言葉であろうかと邪推してしまう。
ちなみに彼女はその後,自閉症の範疇である「アスペルガー症候群」と診断されたという。
健康診断や問診で「動悸や息切れがありますか」という項目がある。
以前から,この質問はなんだろうと感じていた。
誰しも階段を駆け上がったり,速足で歩けば動悸や息切れがするであろうに,何を基準に「動悸・息切れ」というのであろうかと。
ずっと,その説明が欲しかったのであるが,ようやく息切れについては資料が見つかった。
木田厚瑞氏著「LINQによる包括的呼吸ケア」(医学書院)の一部に説明があった。
それによると,現在,息切れの主な評価方法は2つ。
Grade 0から5までに分けられた患者自身の判定によるMRCスケールと,患者自身によるVASも使うがFEVをも組み合わせたOCD(oxygen cost diagram)がそれである。
一般的には「息切れを感じない」から「衣服の着脱でも息切れをする」まで具体的な例を挙げているMRCスケールのほうが分かりやすい。
こちらを使えば,問診で「息切れがしますか」と問われたとき「平地歩行でも同年齢の人より歩くのが遅い」と思えばGrade 3にあたるので「息切れします」と答えてよいことになる。(もちろん呼吸に関して不具合があるという自覚症状は必要であろう)。
同書にあるGrade 0から5の詳細は省くが,施療側も息切れについて質問するとき,そしてそれが重要な要素であると思うなら定義を明確に示しておいてほしいものである。
いまひとつの「動悸」については,残念ながらいまだ資料を見つけられない。
前稿で1月の新聞の占い欄に「来年まで尾を引く」という原稿があったということを記した。本来の意味とは異なるが,この場合は一種の予定稿であったのだろう。
予定稿とは,あらかじめ予想される自体を想定して記事を作成しておくことである。著名人が病床に長くあっていよいよ亡くなりそうだと予想されるようなときや,報道規制で書けない誘拐事件が解決しそうだなどというとき,あらかじめ書いておいてその瞬間に出すようなものである。掲載締切時間の関係でぎりぎりのときなどのスポーツは,勝ったとき負けたとき両方の記事を準備したりする。
ただし,予定稿であるから,あくまでも実際の経緯を待って出すのが正しい。亡くなってもいないのに「●●氏の業績をしのぶ」とかやってはいけないのである。
ところが,2年ほど前の12月の毎日新聞に「紅白歌合戦の出場者の曲名が決まった」という記事に「さだまさしが『平和の空』を熱唱する」とあった。これはなんと呼ぶべきか。
同紙にはこれ以前にも「今夜●●が心にしみる演奏をする」というような記事もあったが,こうなると予定稿ではない。「さだまさしが泣きながら歌う」と記すのと同じ「創作」であるということが記者には分かっていないのであり,社内チェックもできていない証左である。
米国のスーパーボウルで初の黒人監督が優勝したということを伝えた2月6日の毎日新聞スポーツ欄である。米国ナショナル・フットボール・リーグ(NFL)の王者を決めるスーパーボウルで,コルツ(というチーム)が36年ぶりに優勝した。そのときの写真キャプションに「試合後,自身を成長させたダンジー監督と優勝を喜び合うマニング」とある。
「自身を成長させた」とは何と驕った表現であるか。
「ダンジー監督」を「野村監督」「星野監督」に置き換えてみれば分かるであろう。
記者が「お前も偉くなったな」と言っているのである。
仮に記者が老齢で相手が年少者であっても,仮に記者が面倒をみてやった人物であろうとも,こういう視点での表現をしてはならない。
ちなみにダンジーは51歳である。
「あるある大事典II」でのやらせ内容が問題視され,国会でも取り上げられる始末だが,あの番組がそれほどの番組であったろうか。誤った医学知識の提供や,当人が知りえないであろうことをいいことにした海外Drのコメント捏造はひどいが,テレビは所詮そんなもの。で,いいのではなかろうか。「あるある」も分野別では「エンターテインメント番組」であり「教養科学情報番組」ではない。自分で考えることをしなくなった視聴者のレベルも問題であろう。
テレビは所詮そんなものである。しかし,新聞は・・。と書きたいところであるが,新聞もどうかと思う昨今である。新聞にもスポーツ紙,一般紙,経済紙など住み分けがあり,スポーツ紙を読むときは誰しもそれなりの意識で読んでいるはずである。だから東スポと呼ばれる「東京スポーツ新聞」が,どんな荒唐無稽な記事を書いてもそれはそれで受け入れられている。問いたいのは一般紙の,それも三大全国紙といわれるうちの1紙の朝刊に,毎日星占いが掲載されているということである。
スポーツ紙なら「占い」も「宇宙人」もいいだろう。スポーツ紙は,そういう眼で読むからである。また,テレビでも各局「今日の運勢」をやっており,ゴールデンタイムにも「占い」がある。それも「所詮テレビは」だから許そう。しかし,少なくとも一般全国新聞紙には,品格が欲しい。
その編集レベルも示そう。
「天秤座の項目:立場の違いで衝突。我を通すと来年まで尾を引きそう」
これが掲載されたのは年が明けて間もない1月13日である。「来年まで尾を引きそう」とは何であろう。おそらくは前年末用にストックしてあった原稿を「今日はこれにしておけ」と配置したであろう編集部のいいかげんさも分かる。
有料である広告記事あるいは求人記事の掲載についても,各社チェックが厳しいと聞く。全国紙朝刊に星占いを掲載する新聞社の品位を疑う。
慇懃無礼のほかなにものでもない。患者さんで充分である。施療側とて日常使ってもいないだろうし,患者側も言われてこそばゆいだけである。銀行窓口で●●様と呼ばれるのとはわけが違う。
公の場だけ「患者様」と言っても医師側も慣れていないから診療の場では
「あんたね,そんなことやってると治らないよ」と言うのである。
親身に言ってくれていると感じられれば,このほうが患者側は素直に受け入れる。
いまの「患者様」表現は,封筒の宛名書きの敬称扱いに過ぎず一種の記号でしかない。
「様」を使うのは施療側と受療側の関係が遠いことを意味している。
もし「患者様」の表現を施療側が,心底受け入れていたら,きっとこうなる。
「●●様,そのようなことをなさっていたら治るものも治りませんですよ」
検診と健診は混同して使われていることが多い。
検診は特定の病気についての診察であり,健診は総合的な診察である。
つまり前者は,乳がん検診,眼科検診などであり,後者は老人健診,三歳児健診などをいう。
一般の人間ドックなどは総合的な健診であり,脳ドックは検診と記すべきであろう。
用語として混在しているのが「寛解」と「緩解」である。読みは同じだが,前者は「寛」に「広い」「くつろぐ」の意味があり,後者の「緩」には「ゆるやか」の意味がある。
この熟語を使って「完全かんかい」「一部かんかい」と表現するのであれば「寛解」の文字のほうが妥当であろうと思う。「完全にくつろぐ」というほうが「完全にゆるやか」というより妥当性があるからである。
20年ほど前までは「脳梗塞」「心筋梗塞」の「梗」の字は「硬」がよく使われていた。「硬」は文字通り「かたい」という意味である。血管壁が硬くなってというニュアンスでもあったのだろうか。現在の「梗塞」の「梗」は「ふさぐ」という意味である。