菅総理退陣による総選挙が始まっている。
新総理(岸田)の就任早々の決断ということもあり、与野党とも準備不足は否めない。
選挙活動の一環として、欧米のような戸別訪問は許されないが日本では、ハガキや電話による勧誘は許されている。
昨日、ある候補者からの電話が自宅の固定電話にあった。当然のように録音された音声で勝手にしゃべり続けている。
許された制度だから電話がかかってくるのは気にしない。
問題はどうやって自宅の電話番号を知ったのかである。
個人情報保護を意識してかどうかは知らないが、NTTが配布する電話帳に個人宅の番号記載を希望する人は現在ほぼ皆無であると聞く。しかるに候補者は電話をしてきた。
いったいどうやって番号を入手したのか。
もちろんNTTの104(番号案内)で何丁目の誰それの番号をと聞けばわかるのかもしれない。しかし、1件あたり60円かかる。結構高い。有権者が10万人いれば600万円である。さらに電話をかける先に有権者である18歳以上の住民がいるかどうかを先に調べていたりしたら、もっと費用がかかる。
限られた選挙費用を電話攻勢にかけるだろうか。
話を戻すが、問題としたいのは電話番号をどうやって入手したのかということである。
私は電話帳に掲載していない。NTTの番号案内は電話帳に記載されていないものは案内しないはずである。
候補者はいったいどんな名簿を持っているのか不安である。
今日からTBSワイドショーの「ひるおび!」が、新型コロナウイルス肺炎予防対策の一環として無観客放送にした。当然である。ならば、さらに進めて出演者は全員マスク姿でもよいのではないか。
ゲストを含めた出演者が陰性の診断を得て出演しているわけでもないだろうし、陰性と診断された人間が再検査で陽性に転じたというニュースも多い。出演者お互いの安心と疑心暗鬼を避けるためマスク着用にすべきだろう。放送技術的にマスクでも声は通るはずだ。
放送では一般人にマスク着用をさんざん訴えながらTV局内は安全だと言うのだろうか。
おそらくは見栄えが気になるという理由でマスクをしないのだろうが、それは蛮勇というものだ。
他局はしていないという理由にはどこかが先鞭をつければよい。危機管理、リスクファクターを減らすとはそういうものではないか。
イランの保健省副大臣が感染したという昨今。国会議員が議場内でマスク姿でもいまなら違和感はない。
3.11以降の放送ではヘルメット姿が多くみられたが視聴者からクレイムはなかっただろう。
感染経路が不明のいま、恰好よりも安全優先だ。
ワイドショーの出演者からマスク姿が消えたら安全になった時と思えるようにしてほしい。
高齢者によるアクセルとブレーキの踏み間違いとされる痛ましい事故が続いている。
踏み間違いというのは事象としてはその通りだと思うが、実際はパニックになった時に「踏む、踏む」という意識だけが頭にあって、足をアクセルから離すという動作ができないことであろう。
自転車やスキーの初心者がそっち行くと危ない危ないと思いながら、操作ができずに結果として倒れるのに似ている。
現状のペダルはアクセルもブレーキも右足で操作する。なぜか。それはクラッチがあるマニュアル車の操作に左足の働きが必要だったからである。
現在オートマ車とマニュアル車の比率は大きく変わっている(99:1)。オートマ車ではペダルは2つである。ならば、右足でアクセル、左足でブレーキではだめなのか。
オートマ車とマニュアル車の比率が大きく変わった現在、教習所においてはむしろマニュアル車を運転する人のために専用の講習をする時代ではなかろうか。
右足アクセル、左足ブレーキのペダルを決めれば踏み間違いは起こらない。
近年、小説類は単行本や文庫本で読むことばかりで、文学雑誌を読むことが久しくなくなった。
ひとつには、雑誌の特集にあまり魅力を感じなくなったことと、読みきり以外の連載小説を読むのが面倒になったことがある。また、好きな作家が限定されてきてその作家以外には興味がなくなったということもある。
閑話休題
今回の本題は文学新人賞の募集についてである。
多くの文芸雑誌は新人賞を設定していて、定期的に一般からの原稿募集をしている。
今回いくつかの雑誌を見て驚いたのは、募集要項の規定に「手書きは不可」というのが非常に多かったことである。中には「マス目のない紙に縦書きで印刷したものが条件」という規定もある。
「手書き不可」というのは、時代の趨勢でもあろうがパソコンを扱えないような者は小説を書く資格がないということであろうか。手書き原稿は選考の対象外と明文化されている。まちがっても万年筆なんかで書いてくるなというのである。
また「マス目のない・・」について言えば、原稿用紙に書くなということである。原稿用紙の書式を設定できるワープロソフトもあるが、それも使うなという。
この2つの禁止規定は、崩し字のような原稿が読めなくなっている若い編集者が多いことや、応募原稿を大勢で読むためにスキャンしてデータ化するのに楽だからなのであろう。
新人発掘のための募集要項であるから、すでに作家として活躍している人間は含まれていないが、この規定そのものは編集者の怠慢ではあるまいか。
なぜなら、芥川賞受賞作「abさんご」のような横書きは応募時点で落とされることになるからである。小説を読みもせずに、まず規定にあっていませんからと門前払いなのである。
新人作家を発掘しようという意欲を自ら放棄しているのである。
昔は、どんどん原稿を応募してきてください。新人発掘が大事ですからと言っていたものが、いつのまにか見た目の形式を厳格にして自分たち編集者が苦労をしなくて済むようにしているのである。
ブログに代表されるように、あまりにも多くの「物書き」が出てきているせいかもしれない。そういう短い文章を書き連ねる「物書き」が増えてきたためか、かれらを排除するために、かつては30枚程度でよかった新人賞応募原稿もいまは最低で50枚になっているようだ。
この「誰彼かまわず応募してくる」のを面倒くさがったのが文藝春秋社である。なんと応募規定に「当該雑誌を買って応募券を貼れ」とあるのだ。驚いた。新人作家を探したい。しかし、ただでは原稿を読んでやらないぞというのである。
自分たちで作家を探そうとしないから、どこか1社で売れるとわーっと群がる。たしかに応募原稿は玉石混交であろう。しかし、新人を発掘・育成しようと思うならどんな文章であろうとも応募してきた原稿は編集者は読むべきであろう。
最近の毎日新聞訃報欄で死因を「心不全」としているものをよくみかける。
よく見かけるばかりでなく、本日は「昨日記事で腎不全で死去としたのは心不全の誤りでした」という「おわび」まで出たので今回テーマについて書くことにした。
本来、「心不全」は死因ではなく状態を表わすものである。
昭和の時代の死亡診断書は「心不全」が多かった。なぜか。簡単だからである。病名を書かずとも、とにかく死んだのだから「心不全」で間違いではない。これである。
しかし、それはおかしいだろうという話が(たしか医療側からであったと思うが)出て、以後はできるだけ正確に死に至った病名を記すことになった。
その後、医師が死亡診断書を作成する際には、あきらかに心疾患が原因である場合を除いて「心不全」という記載は禁止されている。
もちろん「心不全」を使えるとはいえ、医療現場では心不全に至った病因(大動脈瘤破裂とか心筋梗塞など)が併記されないことはないであろう。
新聞記事もそれに準ずるはずであったろうに昨今の安易な「心不全」死亡記事である。
心不全という「状態」を死因と書くなら脳死も死因となるはずだが「脳死」を死因とした訃報はみたことがないのはなぜだろう。さらに極端に言えば自殺も心不全に陥るのでその死因も「心不全」としうるはずである。
安易な「心不全」の使用は止めてほしいものである。
今朝の「おわび訂正記事」に話を戻すなら、「腎不全」も腎臓の悪化した状態を述べているだけなので死因(病名)ではない。
最近無灯火の車を見かけることが多い。
自転車ではなく乗用車である。
通常、車のヘッドライト点灯は日没時間がその基準とされているが、暗くなったら点灯が常識である。
今回テーマの夜間無灯火は明らかに日没以後で、それも深夜の場合もある。深夜にヘッドライトを点けずに走っているのである。
何度か遭遇したのでどういうことかと思ったが、ひとつには自動車運転に支障がないほど都会の道路が明るいということである。つまりライトが点いていなくても運転者には道路が良く見えるのである。
しかし、運転側には見えていても歩行者からすれば無灯火の車が向かってくるのであるから、これは怖い。
近年は、暗くなるとヘッドライトが自動点灯する車がある。トンネルに入ると操作しなくても点灯して、出ると消灯する機能である。なので、この機能を設定していれば夜間無灯火ということはない。
おそらく、遭遇したような夜間無灯火で走る車の原因はそのコントロールパネルにある。
以前の車はヘッドライトを点灯させるとコントロールパネルの照明にも電気がつき、速度計やタコメーターなどが明るく見られた。点灯しないと速度計も暗いままだったのである。ところが、現在はコントロールパネルの明るさがライトを点けなくても調節できる。つまりテレビやパソコンの画面表示を明るく調節するのと同じことができるのである。
したがって、夜間に車のヘッドライト点灯をしなくてもパネルが明るいため運転者は車のヘッドライトが点いていると勘違いして無灯火のままで走っているのであろう。
暗さを感知してのヘッドライトの自動点灯は改善だが、これは改悪としか言えない。
先日都内のA大学病院で術前の検査を受けた。
検査は基礎的なもので、血液・尿・心電図などである。担当医師からは、あいにくと手術は順番待ちで当A大学病院では来年8月まで無理と言われ、急ぐなら関連病院のB病院への紹介状を書くと言われた。
今日明日の手術を希望したわけではないが、半年以上の待機は辛いのでB病院での手術を希望したところ、データと紹介状を持って一度B病院を受診してくれと言われた。
ここまでの話は普通にあることであろう。
B病院は新幹線で1時間ほどのところにあるが、A大学病院の元教授らが在籍しており、A大学病院で診察してくれた医師も時折り行っている。
問題は、B病院でのことである。
そこでも同じ血液・尿・心電図検査などを受けさせられたのである。
A大学病院でのデータを持って訪れたのに、である。そしてそのA大学病院のデータを見てB病院の医師は内容に納得しているのに、である。
A大学病院の検査から2週間も経っていない。なぜ、同じ検査をするのかの説明はない。
ひとこと「ここでもやっておきましょう」。
実はこのようなことを経験したのは初めてではない。
当初は、最初に検査をした病院のデータが信頼できないのか。と思っていた。
また、重要なデータ検査なら術前のことなので万一を考えての最終確認も分からないでもない。
しかし、検査内容は一般的なものである。
しかも、系列病院であり、医者同士も知り合いである。
以前は検査したばかりですが、と言えば納得することもあった。
結局は検査料のことであろうと思い至った。
検査料を得るために患者に無用の痛い思いをさせているのである。
駅構内や電車内にポスターが貼られている「痴漢は犯罪です」。
書店に行けば貼られている「万引きは犯罪です」。
何が犯罪であるかを大人に教えねばならないご時勢である。
いずれ「殺人は犯罪である」と教えねばならなくなるのだろう。
しかし、万引きは犯罪です。痴漢は犯罪です。と公器で訴えねばならないのはいかがなものか。
いったいこのことについての教育の責めを負わねばならないのは、学校なのか家庭なのか。
その昔、東大生が窃盗犯で捕まったときに「返せばいいのだろう」と言ったことがニュースになった。
つまりそのことがニュースになるほど「恥知らず」と当時の人は思っていたということなのである。
現在都会では、朝夕の一部車両が女性専用とされているが,これは恥である。
何が「恥」であるかを知らない現代人。昔の人々には共通の認識であった「恥」の意識。
現代人にとっての「恥」とはなんだろう。
一昔前は借金も恥であった。質屋通いもこっそりとであったから,質屋は裏通りにあった。
武士は食わねど高楊枝という「矜持」やせ我慢があった。
だが、現在は借金することは恥ではなくなっているようだ。
銀行が昔のサラ金と提携しているのは「恥知らず」と思えてしかたないが、もともと金貸しは下品なものと思えば納得がいく。
欧米の俳優はCMに出るようになれば落ち目だという。多くの大物スターが日本のCMには出ているが、それはほとんど出演料のためである。
昨今、日本の著名タレントのサラ金CMへの出演が目に付く。
いつからか銀行がサラ金と手を組むようになった(銀行はサラ金にノウハウを教わって、サラ金は銀行の名前を利用して)。
しかし、「ご利用は計画的に」と、もっともらしいことをうたっているからといって、所詮は金貸しである。収入に困っているとも思えない現役のタレントが、金貸しの片棒を担ぐということを恥と思わなくなっているのはさびしい。
昔は深夜にしか放映していなかったサラ金やパチンコのCMが、いまはプライムタイムに流れるようになった。放送収入があるからかもしれないが、昔は放送する側にも品位というものがあったように思う。背に腹は代えられぬということか。
いずれ一般新聞も風俗店の広告を載せることになるのであろうか。
永六輔は、テレビでタレントが食べる場面を見るのが苦痛で、下品であると言う。
その理由や感性が理解できなくなっている現代はさびしい。
角膜に限らず移植についてドナーが少ないというのは、以前からの問題ではあるが、そこには「献体」との関連もふくまれはしまいか。献体登録すると、各部分の臓器提供はできないからである。
献体する側からすれば、角膜であろうが、腎臓であろうが、移植で使えるものは使ってもらってもよいと思うのだが、「献体」はあくまで医学生の解剖実習用であるから、提供する体に欠損があっては、正しい人体構造が理解できなくて不向きであるということであろうか。
以前は解剖実習に使用する献体は実習生6人に1体であったものが、いまは献体者数が増加しすぎて登録制限をする大学も増えてきたという。
登録者の意思はうかがい知ることはできないが、家族関係が疎遠になっていることや、葬儀の煩わしさ、その費用問題もあるだろう。献体された遺体は大学でほぼ1年保存された後、解剖され荼毘に付されるが、その費用は大学が負担するからである。
冒頭に記した提供移植臓器の不足を想い、献体登録をやめて臓器提供に切り換えたいと思う人も増えているかもしれないが、遺族の葬儀負担を考えると難しいのだろうか。
震災後の福島原発の事故が一向に終息の気配がない。
原発周辺の福島住民は故郷に戻れず既に8ヵ月を越えた。人の手の入らない住居は荒れ果てている。
誰ひとり責任を取らない東京電力の無責任さについては、本稿の主旨ではないので触れない。
本稿の主旨はタイトルどおりである。
放射線については連日その濃度が各地で発表されている。全国的には文部科学省の発表数値があるが、メディアで話題になる多くの検査値は地方自治体や個人検査に拠るものである。どこそこの庭で何ベクレル、どこの下水で何ベクレルと報道され、その数値に該当地域の人々は眉を顰めている。
子供を近所の広場で遊ばせても大丈夫か、通学路は大丈夫か、自宅のベランダは大丈夫かと、ガイガーカウンターは売れ筋商品だそうである。ある地方自治体は小学生全員に計測器を配布した。
問題は、なぜ被害者である一般市民や地方自治体がその器材を購入してチェックせねばならないのかということである。見えない放射能をばらまいているのは電力会社が保有する原発である。原発事故さえなければ無用のものである。加害者である電力会社が最低の補償として配布すべきではないのか。
話を進めるならば、現在は事故を起こしていない原発についても、同様である。原発を持つすべての電力会社は、電力料金を取っている全戸に対して計測器を無料で配布しておくべきであろう。
もっとも、近所で放射線量が高かったことが分かったところで一般住民はどのように対処すればよいのか、政府も電力会社も明確な指示を出していないので分からない。
これについては、全国新聞の全面を使ってでも「何ベクレルだと手足洗いを」「何ベクレルだと外出は控えましょう」というような基準を出すべきではないか。
さらに付け足しであるが、天気予報ならぬ電気予報は、明日はこれだけしか作ってやらないぞ、電気が欲しければ原発を可動させろよと言っているようで、これも不快である。在庫が無くなりそうなのでお一人様1個で勘弁してくださいという表現でなく、おまえたちの苦情のせいだから、文句を言うおまえたちが我慢しろである。
そもそも電気予報とやらの数値が操作されていないとどうして言えよう。