自国の利益のために他国でクーデターを起こさせたり、経済的に制裁を加えることは政治の世界では常套手段であり、アリだろう。1973年9月、米国は、チリの大統領アジェンデを打ち倒し死に追いやる軍事クーデターを起こさせた。そこには誘導されたとはいえ、その国の人民が関わっていた。いわゆる傀儡政権ができるわけであるが、アリである。
作られた理由であっても、そこには「その国の人々の要求」があるからである。
古くはキューバのカストロ暗殺未遂や最近のサダムフセイン殺害。「その国の人々の要請があったから」米国は殺害に出かけた。
現在の中東各国での人民の蜂起も似た状況である。
今回はどうか。パキスタンの要請はなかったはずである。米国が勝手に他国に出かけ、かつ事前に主権国に連絡もなく、武器を使用したのである。
考えて欲しい。日本の隣家に、ある犯人が潜伏していたとしよう。突然米軍ヘリが飛んできて銃撃を加え、彼と彼の家族を殺害していくのである。
自分の土地であるのに、勝手に入って来て殺人をして行く。事前に警察から、逮捕劇があるから避難していてくださいのアナウンスもないのだ。いや、警察自体知らされていない。
ビンラディン殺害後に米国民は歓喜し、テレビ番組内ではマーチングバンドまで出演した。
その騒ぎはまるでワールドカップサッカーの優勝パレードを見るようではなかったか。
恐らくは認識の違いであろう。米国は「テロとの戦争」をしていたのである。戦争だから相手の指導者は抹殺すべき対象である。第二次大戦でムッソリーニやヒットラーが死んで歓喜したのと同じ感覚である。だから、指導者を抹殺できたから、お祭り騒ぎをする。こう考えるとわからないでもない。
ただ、日本のメディアはニュースを伝えるが是とも非とも言わない。政治家の声もほとんど聞こえない。過去も現在も米国による他国指導者の殺害を容認しているのである。内政干渉の視点からだけでもよい。ひとこと欲しい。
米兵が他国の戦闘で死ぬと米国内では英雄扱いするが、戦闘員でない他国の市民が米国の誤爆等によって何人死のうが米国では「戦争だから仕方ない」と言う。
自国民に何かあれば、内政干渉など関係ない、徹底的に叩くぞ、という米国の姿勢はある意味とてもうらやましいものである。国は必ず自分を守ってくれるという意識(愛国心につながるかどうかは別だが)をもてるからである。
米国大統領が「正義は実現された」と言った。彼らは当然ながら世界のことを考えているわけではない。自国の利益しか考えていない。かれらの正義である。
米国大統領の宣誓時に必ず言うのは「God bless you」であるが、このyouは「米国人」だけを意味している。だから最後も「God bless America」で締める。
近年のNHKは民放のアナウンサーと一緒にデジタル放送の案内をしたり、番組内でも出演者が平気で民放番組名を上げたりする。以前のように商品が映ったときに急いで画面を切り換えたりもしない。それどころか、民放の「世界の車窓から」をパロディ化した「世界の社食から」という一企業の食堂を取りあげる準レギュラー番組まである。コカコーラやグーグルや松下電器などが堂々と取り上げられている。ずいぶんと「柔らかく」なったものである。
そういう柔らかさがあるのならば、震災後の東京電力による節電のお願いスポットを、なぜ放送しないのだろうか。これは、1社の「商品広告」ではない。日本中の国民に呼びかけているもので、こういうものは全国放送のNHKこそ流すべきであろう。たんに節電しましょうではなく、具体的に「コンセントを抜きましょう」「冷蔵庫の温度を考えましょう」などわかりやすく例をあげているのだ。
今回の節電の件だけではない。かつてある石油ストーブに欠陥があり、使用すると火災の恐れがあるとして、メーカーは一日何度も、その機種と製造番号を挙げて視聴者に注意を促した。しかしNHKはニュースとしては取り上げたが、それだけである。
ことは人命にかかわることである。このような場合は、メーカー作成の注意スポットを一日何度もNHKも流すべきではなかったか。
全国放送を自負するNHKならでこそできることではないか。
みなさまとともに考えなくなったNHKである。
だれが何億円だした、だれは何千万円だなどと金額についてそれを競う必要は全くない。善意は気持ちだからである。
孫氏の100億円も小学生の10円も同列である。
金額の多寡を問題にする必要はない。しかし、行動をしたかどうかは問題であろう。
芸能人・タレントの活動が偽善・売名行為に見えてもいいではないか。事務所の方針だからの行動であってもいいではないか。何もしないよりは被災地の人々の役に立っているからである。
善を成すにはいつも詫びながらせねばならない。善ほど人を傷つけるものはないから。とはヴァレリの言葉(太宰も作中で使っている)だが、善を成すという意識を持ってしまうからうそっぽく思えるのである。その行為が当人にとって日常生活の一環であれば、善を成しているという意識はない。
その昔、街には「地の塩の箱」と書かれた募金箱があったのを記憶している。当時の人々の生活は貧しいものであったが、そこにはいつもいくらかのお金が入っていた。
だれが持って行ってもよいお金が入っていたのである。
だれが持っていくかわからないし、盗まれるかもしれないが、そんなことは考えないというのが前提である。持って行く人は困っている人だという発想である。
募金箱の名前からわかるように、これはキリスト教の教えである。しかし、そんな名称や宗教に関係なく、その流れに近いものが地方に行くと見られる。作物を公道脇の路上に置いて、ひとつ100円とか書いた紙と、代金を入れる箱(ときにはザル)を置いてある無人の売り場である。それは物を買ったらお金を払うという当たり前の行為を信じている態度である。
払わずに持っていく輩がいても、ああ、持って行かれたと嘆くかもしれないが、そこで無人販売を止めるかと言えばそうではない。嘆きつつも補充する。他人をというより人間を信じているのである。
盗まれるほうが辛いか盗むほうが辛いかという思いがなければこの販売はできない。
願わくば、困窮者を援助することが日常であって欲しい。
今回の大災害に寄せられる海外からの援助には驚きを禁じえない。
義援金の多さは言うにおよばず、アーティストだけでなく一般市民による各種支援イベントの多さを知るにつけ、国民性の違いを思い知らされるとともに、感激し、感謝の念を抱いた。
振り返ってみるに、日本国民は、あの20万人以上の死者を出した2004年のインドネシアのスマトラ沖地震や、それ以上の死者を出した昨年のハイチ地震の被害に際して、どれほどの援助を行ったのだろう。スマトラ沖のときに国としての義援金が高額だったことは記憶にあるが、他国の民としてである。自身を恥じ入りつつも、疑問に思う。
国として自衛隊や赤十字ほかの救助隊の派遣が行なわれたことも知っているし、一部団体・個人による援助活動も聞いているが、国民行動として、今回の日本に対する世界の対応のような援助行為が、国内で行われたとは聞いたことがない。国民性の違いと言えばそれまでだが、プロ野球やサッカーの開始時に他国の災害のために、われわれは黙祷をささげたことがあったであろうか。
もし、今後同様の事態が海外で起きたなら、われわれも国際社会に対して、積極的に援助をし、今回の恩返しをせねばなるまいとの念を強くしたものである。
しかし、しかしである。今回の海外における膨大な援助活動や祈りを知るにつけ、もしかしたら、国内でわれわれに流されている情報以上に、世界から見た「正しい」日本の実情はとてつもなくひどいのではないだろうかと、穿った見方をしてしまうのも残念ながら止められない。
なんせあの北朝鮮からも援助があったのである。
3月11日の震災はまさに未曾有の出来事であった。1カ月を過ぎようとしているのに余震が続いている。日本の地震は火山活動よりも海底の断層によるプレートが跳ね上がって起きることが多いとされる。プレートが跳ね上がるときのエネルギーは想像を絶する。今回の地震で日本列島が数センチ移動したと言われるが、日本列島自体がプレートに乗っているのならさもありなんである。
メカニズムとして、一方のプレートが反対側のプレートにもぐりこんで、それが元に戻るときに大きな地震が起こるというのは理解できるが、では、余震とは何だろう。何度もプレートがもぐりこんで跳ね返ることが繰りかえされているわけではないだろう。
一説には本震のときにプレート全部が跳ね返ったわけでなく、残った部分の跳ね返りというような説明もあるが、それでは、頻繁に起こる余震の震源地が本震と同じであるときの説明はつかない。余震域は同じプレートの別の部分でなければならないからである。
5年間も続いた松代群発地震は内陸の火山性であろうから、これとは異なる。
いずれにしても頻回な余震は不安を増強する。
一時研究されていたように思うが、大地震を避けるためにエネルギーを小出しにさせる対処方法、人工的に断層に刺激を与え定期的に小さな地震を起こさせる方法は考えられないものであろうか。
先月の話である。世話になっている人に中元を贈った。例年新宿のIデパートを利用しているが、相手の在宅曜日が決まっているので、これも例年通り届け日(曜日)の指定をした。
手配してから数日後、自宅の留守電に「Iデパートです。お伝えしたいことがあります」というメッセージが、日に何度も入るようになった。
中元の手配をしてから海外に出かけたが、留守電のチェックをすることは欠かさなかったので、そのメッセージを聞くことはできた。
ただ、留守電は「お伝えしたいことがあります」の繰り返しで、その内容を言わなければ、連絡して欲しいとも言わない。
留守電については設定した呼び出し音回数でメッセージの有無が判断できるので、録音がないと判断すれば接続せずに切るため電話代はかからないのだが、このメッセージのため、無用の留守電を聞かねばならず、無駄な国際電話代がかかった。
海外でこの無用の留守電を聞くことが数日続いたので、さすがに腹に据えかねてネットでそのデパートのHPを調べ、メールで訴えたところ、顧客サービス部門の人間から返信メールがあった。注文した品物は届け日の指定ができないものであったのに、デパート担当者のミスで受けてしまったがどうしよう。というものである。
いまさら、注文の取り消しや変更もわずらわしいことであるので、不在時届け通知を出してくれれば先方で対処するだろうから、それでよいと返信した。
今回の件で不快な点は2つある。受注した担当者のミスはたいしたことではない。
ひとつは「お伝えしたいことがあります」の一点張りで、いっさい内容を伝えないことである。留守電にその内容が吹き込んであれば、すぐに回答はできた。しかるに内容を言わない。これは、「自分たちのミスを認めない」「言質を取られたくない」というどこか銀行に似た責任逃れ方策ではないだろうか。
いまひとつは、「不在票で対処してくれれば良い」と回答したとたん、一切の連絡がなくなったことである。ありがとうございましたでも、ご迷惑をかけましたでもない。あれだけ頻繁に電話してきていたのに、何も連絡がなくなったのである。
デパートとしては、後者のほうが問題だろう。
すくなくとも、お客様係りは何らかの連絡をしてくるべきではないか。これでは、お客様係りではなく対社員係りである。
地下鉄車内でタバコを吸う人間はさすがにいないが、化粧は日常茶飯事となった。車内での飲み食いも多い。ペットボトルをカバンに入れて持ち歩くのも一種の流行になっているようだ。
米国流のつもりなのか、歩きながら物を食べるのが普通になってきている。昔は歩きながら(立って)物を食べるなと躾けられたが、これも時代の変遷なのだろう。
しかし、米国の模倣大好きとはいえ、いかに米国でも地下鉄車内での飲食は禁止である。ホームで持っているのが見つかると放送で注意される。
優先席付近での携帯電話の使用と同様に、化粧や飲食も車内放送で禁止を訴えられないものか。見たくないものを見せられるのは、不快である。
もちろん、テーブルが付いていて郊外を走る列車での飲食は別の話である。
話題が少しずれるが、タバコはその副流煙の害が認識されて、禁煙車両が増えているのはありがたいが、禁酒車両というのを作ってもらえないものだろうか。
酒飲みには分からないかもしれないが、あのにおい(とくにビールと裂きイカ)は、ときとして耐えられないものがあるからである。
仕事柄、空路を利用することが多い。国内便に限って言えば機内持ち込み品についての記述でライターは1個までOKというのはどういう意味だろう。1個でも2個でも危険性は同じではなかろうか。
ペットボトルも国内便は持ち込み可能だし、金属反応についても、羽田でひっかからなかったものが、地方空港ではひっかかったりする。
海外便では、米国行きはセキュリティが厳しくなっているのは周知のことであり、渡米に際してトランクに鍵を掛けるなと空港で言われるものの、欧州行きに際しての航空会社では鍵は掛けてもよいと言われ、トランクにペットボトルが数本入ったままでも何も言われない。
規準はどうなっているのだろうか。
最近の話題として、全身を透視する装置のことがある。服の上からではあるが全身の体形をチェックできるもので、人体を白、それ以外の異物を黒で表示し、衣類の中に隠されたものも探知できるという。ただし問題は、身体的特徴も鮮明に映すため、乳房や性器の形状まで分かるらしく、装置のことを知った乗客の拒否反応は激しいという。
ただ、テロに対する安全性の優位ということであろうか、この装置は既に、オランダスキポール空港に始まりロンドンヒースロー空港でも稼動しているという。
成田でも開始するというラジオ放送を先日聞いたが、その放送では「装置は導入するがチェックに関しては乗客のうち受けてもいいという人間に限定する」そうだ。
成田について、笑える話である。
JALが破綻して、機内サービスが変わった。
いままで無料でサービスしていた飲み物が有料になり、ヘッドホンも求めないと提供されなくなった。
JALのほうではなく、全日空のほうの話である。全日空が強気でそのように変えてきたのである。
たしかに、いままでも国内便の短い時間ならあえて飲み物を欲しいと思わないことも多かったが、突如有料にすると言われると、なぜだと思いたくなる。
ヘッドホンは以前は目の前に置いてあったから、それを使うかどうかは客次第であった。それが設置がなくなり、声をかけないと提供されなくなった。
いずれこれも有料にしようというのだろうか。
ヘッドホンに関して言えば、以前米国のある航空会社が太平洋路線の機内で1ドルで貸し出していた。当然ながら不評で、やがて他社同様に無料となった。
米国のサウスウエスト航空やオーストラリア便のジェット航空のように、機内サービスを抑える代わりに運賃を安くするなら乗客も納得しようが、全日空の場合はそうではない。
JALの弱みにつけこんで・・という気がしてしまう。
余談ながら、空港出発カウンターの案内アナウンス「ご妊娠中のお客様」という表現には違和感を覚える。
ご頭痛持ちのお客様などはどのように思うだろう。
自分が飛行機に乗るときは携帯の電源を切るくせに、電車内での優先席では切らない。
航空機の計器に異常が起こる可能性があると言われると切る。操縦席と自身の席がどれだけ離れていても、である。ところが、電車だとすぐ隣の席の人間のペースメーカーを思いやることはしない。
自分の安全は大事だが、他人の安全については、自分が原因となろうとも気にしない。
かと思えば、車内での他人の通話については不快な表情を見せる。
携帯電話が出始めたころの「俺は携帯電話持ってるぞ」的に見せびらかしたい人間が多いときは、たしかに大声での話し方に不快に感じた人間も多かったであろう。
しかし、携帯電話の普及と性能向上から、現在は小声で話すことを覚えたはずである。
火急の用かどうかは知らず、自分からかけるのではなく、かかってきた電話に小声で対応しているのなら、許容してもよいのではないか。
ひそひそと周囲を気にしながら話しているのに、その人間を睨みつけるようにする「常識人間」も多い。そのくせ優先席で携帯を使っている人間を注意するのは皆無に近い。
「車内での通話はご遠慮ください」との注意は、いまではどうかと思う。
優先席での携帯電話使用について話を戻す。
飛行機では、注意をうながして従わなければ機長判断で、降機を命じることができる。
地下鉄でも、同様に罰則を設けてもよいのではないか。
現状でそれを望むべくもなければ、優先席に座っている老人は、隣で携帯電話を使い始めたら一度注意して、それでもやめなければ、いっそ床に倒れてみせてはどうか。