ら抜き言葉が問題になって久しい。その使用については時勢の流れとする言語学者の判断もあり、正しい日本語を使うことを職業としているアナウンサーのような職種の人間以外は、あまり目くじら立てなくなっているようである。
この「ら抜きことば」ほど目立たないが、昨今の言葉遣いで気になるのが「させ言葉」である。この数日だけでもTVで耳にしたのが、「歌わさせていただきます」「それでは読まさせていただきます」「見させていただきます」などなどである。
悲しいかなこのような「させ言葉」は民放のアナウンサーも使っている。
「させ」は本来使役の助動詞である。対手に何かをさせる、あるいは自分が強制的にさせられる受身的に使用する。
敬語の形式として使用の場合は,「基本的には,自分側が行うことを,ア)相手側又は第三者の許可を受けて行い,イ)そのことで恩恵を受けるという事実や気持ちのある場合に使われる」という平成19年2月 文化審議会答申もあるが、これは「出席させていただきます」のような使われ方であり、そこに違和感はない。
先の例は耳にするとなんとなく丁寧に語っているようであるが、この文化審議会答申のいう「恩恵を受ける」ものでないだけでなく、日本語としての使用法で間違っている。
正しくは「歌わせて」「読ませて」「見せて」である。
ときには「食べさせていただきます」などの表現もあり、これだと審議会答申の使用法に合致しているように思えるが、これは言葉自体が間違いで「いただきます」で十分なのである。
過日ログイン時のパスワードを変更しろとYahooが言ってきた。
その通知内容からして,私のパスワードが盗まれて悪さされたとかその危険性があるとかではなく,連絡対象者は無作為抽出のようであった。
パスワードは時折り変えたほうがよいという注意は認識しており、想像にたやすいパスワードは避けたほうがよいということも知っている。加えて、同一パスワードを長年使ってきたことも事実である。
しかし,そのパスワードは自分なりに工夫したものであったから,現状のものを使い続けたいと思い,通知してきたYahooに対して「仮にパスワードが破られて不利益をこうむったとしても,それは自分が納得しているからかまわない。現状のまま行きたい」と伝えたのであるが,それに対する回答はなく,一方的に,変更することを了解しろというのみであった。
新しいパスワードを考えるのも面倒で,加えて自分が納得しているから変更するつもりはなかったのだが,なんとこの通知と同時にログインできなくなっていたのである。
これをもサービスと考えるべきなのか。
おそらくは(こんなことが可能かどうかはわからないが)システムが「同一パスワード使用継続期間の長い人間」を検索するなどして,該当者にその処置をとったのであろうが,まったく余計なお世話である。
新型インフルエンザがパンデミックになるかどうかで毎日のテレビ・新聞のニュースは大きく報道しているが,世間は意外に冷めているようである。
あの鳥インフルエンザがフェイズ3段階であったのに対して,こちらはフェイズ5と認定されたのだから,もっと深刻になってもいいと思うが,前者に比べて弱毒性と言われていることや,国内での感染者数の少なさ,一時新型インフルエンザと疑われた患者らの回復率のよさも理由であろうか。
本日までに新型インフルエンザ患者が国内で4例ほど見つかったが,それまでの「新型を疑われた患者」については最終的に「新型ではありませんでした。A香港型でした」と,いかにも安心したような報道をするのは,いかがなものか。
患者の病態よりも話題性だけを追う報道の軽い扱い方が見える。
水際作戦として海外(とくに中南米)からの入国に際しては,簡易検査でA型インフルエンザの陽性反応が出れば,その遺伝子検査結果が出るまで隔離され,その人間の円周囲2メートルにいた人間も全員停留措置対象となっている。停留措置対象者は発熱もしていないのに10日間も軟禁状態で自由を奪われるのはつらいことであろう。
しかし,この隔離・停留に対しては,法的なものであり拒否もできないし,万一自分が菌を撒いてしまうことになれば,道義的にもつらいであろうから立場を受け入れねばなるまい。
問題は,その停留措置を受ける濃厚接触者を半径2メートルの人間に限定しているところである。海外から飛行機で来た場合,機内は密閉状態である。発熱者(本当の罹患患者としよう)がまったく座席から動かない状態であったならば,2メートルも意味を持つだろうが機内で移動しなかったとは言えまい。とくにエコノミー症候群予防のために機内を歩くことも推奨されたりしている昨今である。
本人の移動がなくとも,機内アテンダントがその患者から感染していれば,機内すべてに広がっていると考えられるではないか。さらにその2メートルも円周囲で考えている。どうして後ろを向いての飛沫撒布を考えるのであろう。
拘束という形で自由を奪われることについては,別問題なのでここでは触れないが,本当に危機管理対策であれば,該当機内からは誰一人出してはいけないはずである。
うがった見方であるが,もし,米国で最大数の患者が発生していなくてもこのような大騒ぎになったであろうか。
毎日新聞経済コラムの筆者でカタカナを多用する人物がいる。
毎回気になっている。
経済欄であるから,ドルだのユーロだの為替レートだのはもちろん国名や海外の人名についてのカタカナは理解できるが,この筆者は「オレが骨身をケズる」だの「中にスッポリハマって」だの無用なカタカナ使用が多い。
ときには「前内閣にカブせる」「ゴネる」「キビしい」「コケる」はおろか,「コイズミさん」「アベさん」のような日本人名前をカタカナにしたときもあった。
ある日には「チェック」「フェア」「クライスラー」「ゼネラル・モーターズ」「ダメージ」「ビッグ」(2回)「ウィルソン」「ヒント」「ガソリン」「スローガン」「エンジン」「省エネ」「バー」「クリア」「メーカー」(2回)と,多くのカタカナが使用されたから,同じコラム内での「ウラをかえせば」「ムリがあった」というものはいっそう目立った。
そもそも本来カタカナ表記すべきもの(外来語・外国地名・人名など)以外をカタカナにするというのはどういう意図かというと,通常は「強調」であろう。
しかし,示したとおりこのコラムでのカタカナには「強調」すべき意味があるとは到底思えない。とくに日本人名をカタカナにするなど無意味である。
もしかして同コラムが社外専門家への発注で,注文はつけられないのかもしれないが,小説ではないのだから読者優先での社内校閲をして欲しいものである。
ウグイスを鼻濁音で発音できない日本人が今はほとんどだと,以前何かで読んだ記憶がある。そもそも鼻濁音がどういうものか,聞いても分からない人間が多いのではないか。1回転を「いっくわぃてん」と年配者が言ったのを聞いたときはへえと思ったが,鼻濁音どころか今では「を」の発音が「お」になっており,それが当然とされている時代だ。
仮名遣いにこだわりをもつ現役作家もいるが,少なくとも一般人は蝶々をてふてふと書いたりはしない。
しかし,まだ50音図に列挙されている文字を正しく発音できないのはおかしいことではないか。私の子供の頃は,や行もわ行も5文字ずつあったし,それぞれ声に出して発声させられたものだ。
時代とともに言葉が変わるのも仕方ないことではあろうが,いずれ「わたしわこれお学校え持って行く」と言文一致の表記になるのだろうか。
大も最近のメディアは「おお」と呼ぶことが多い。
大地震は「おおじしん」で,大舞台は「おおぶたい」である。違和感があるが,これが現在の使われ方なのだろう。しかし,「大看板」も「おおかんばん」と言っているのを聞くと,流石にいかがなものかと思ってしまう。「おおかんばんがおおぶたいに立つ」のである。
「世論」を「せろん」と読むか「よろん」と読むかで意味が異なると聞いたことがあるので,大にも何か違いがあるのであろうか。
「大事」は「おおごと」と「だいじ」と両方読みがあるが,これはさすがに使い分けがある。「いちだいじ」とは言うが「いちおおごと」とは言わないからである。
ちなみにメジャーリーグは「大(だい)リーグ」と呼ぶが,マイナーリーグを「小リーグ」と呼んでいるのは聞いたことはない。
かな遣いも変わってきている。土地は「とち」なのに地面は「じめん」だし,新妻は「にいづま」なのに稲妻は「いなずま」である。
スポーツ・芸能関連でのインタビューに対して、「自分らしさが出せればよいと思う」という表現を耳にすることが多いが、それはいかがなものか。そもそも「らしさ」というのは他者が言うことであって自分で言うことではなかろう。
「そうするとはあの人らしいね」という表現は正しく、それはときとして無意識のうちに振舞っていることに対して他人が評することである。あの人らしいねという表現方法は適切だが、現在の使用法は「どうです。私らしいでしょう」と言おうとしているのである。
あなたらしいというのは、そもそもだれが決めるのかを考えれば、この用法が間違っているのは明らかであろう。
おそらくは「こうするのが私のやり方です」と意思をもって行っていることを表現するのに、意思の含まれない「らしさ」を使っているのであろう。自分で決める「流儀」を、本来は他者が決める「らしさ」で表現しているのである。
自分らしいというのを自分で決められるのであれば、それは演技であって「らしさ」ではない。
2007年12月7日 毎日新聞記事に、エンブレルで他の薬より高率という副題がついた「リウマチ薬79人死亡」というものがあった。
エンブレルとの因果関係が否定できない副作用での死亡が79人に上ることが製造販売元のワイスの調査で分かったとする記事である。
このような販売後調査とその結果発表は重要なものであるが、今回問題にしたいのは、そこではない。記事の最後に、ある教授が「この薬は習熟していない医師が安易に使うべきではない」と語っている部分である。
言っていることは正しい。当然である。習熟していない医師は使うなと同じ分野の医師に言われるのも恥のはずだ。
しかし、習熟していない医師というのは、どのような医師であろう。患者にしてみれば、処方されたときに「先生はこの薬について習熟していますか」と確認などできはしない。手術手技ではない。薬の処方である。一般患者からしてみれば処方した医師が習熟しているかどうか、どこで判断できようか。
新薬が出ればMRと称する製薬メーカー担当者が説明に訪れるし、製品情報概要や添付文書というものが配布もされる。
添付文書はインターネットで容易に見られる。禁忌事項や警告などについては赤字で注意を呼びかけてもいる。とくに新薬については、当然医師は情報入手していなければ使えまい。
もっとも、医師向けの配布資料のほとんどすべてに「用法・用量については添付文書を確認してください」と記されているのは、用法・用量について熟知していない医師が多いことの裏返しである。
やはり専門医制度は重要であるということか。
金 大中、金 正日などの朝鮮人については記憶が正しければ、かの国からの抗議にもとづいて、その国での呼び名に近い発音と表記を行うよう日本のメディアは一斉に切り換えたはずである。
性風俗業種のトルコ風呂の呼称も、トルコと関係があると思われて迷惑だからその呼称をやめてくれとのトルコ大使館からの要請で、現在のソープランドに変わった。
また、新しい名の国が生まれたのでもないが、軍政を敷いたビルマは1989年国連に対しミャンマーの呼称を届け出て、日本はそれを受け入れた。欧米政府や人権団体は、以前のままビルマとしている。その是非は主題でないので触れないが、自分たちをこう呼んでくれという提示があったことは重要である。
北朝鮮については、メディアは以前は必ず朝鮮民主主義人民共和国と一度は言い換えていたが、それを一斉にやめた。国連での彼の国との応酬後からではなかったか。ただ、この件も主題ではないので今回触れない。
いずれにしても金 正日をキム ジョンイルと地元の人々が言っているのなら、そのように発音・表記するというのは自然だ。そして抗議した朝鮮側の姿勢も、 また受け入れた日本側の姿勢もそれはそれで正しい姿勢であろう(中国人についてもそうすべきだと思うが,抗議がないから行わないのだろうか)。
そこで、わが国のことに思い至るとき、なぜ他国から表記や発音をジャパンと言われて甘受しているのか不思議で仕方ない。スポーツの世界では日本選手は胸にNIPPONと表記しているし、応援でもがんばれニッポンである。それが、 外国人から国名を聞かれるとジャパンと言い、自身をジャパニーズと言う。
われわれが日本人同士の会話で自分の国をジャパンと呼んでいるならともかく、そうではない。また、世界中がジャパンと呼ぶなら、多少の我慢もできようが英語以外ではハポンであったりヤパンであったりしている。
ギョエテとは俺のことかとゲーテ言いなどという昔ではない。ニッポンでもニホンでもよい、もっと正しく現地(つまりわれわれ日本)の人々が言っているように、日本を発音・表記させるよう海外のマスコミに訴えるべきではないか。
ジャパンと言われたら、ニホン(あるいはニッポン)と言い換えて返事するようにすべきだと思うがいかに。
墨を加えての4色あれば,全ての色が出せるという印刷初歩を習った身には,昨今のコンピュータが200色や300色は言うに及ばぬ色数を出せるということが,どんなにすごいことなのか,よく理解できない。
色彩心理学という学問がありカラーコディネーターという職業もある。デザイナーは色にこだわり,よく知られたところでは黄色と黒の組み合わせは目立つので, 危険を喚起する印とされ,工事現場や核関連物質などの注意を促す色とされる。また,食品包装物には暖色系を使うのが常道とされている。マヨネーズ会社がまったく同じ内容のマヨネーズについて、その包装を青系と赤系で試したら明らかに売り上げに差がついたのである。
都バスについても、現在は広告収入を得るためいろんな彩色のものが走っているが、あるとき、それまで永く続いた水色系から変更するために、都民の反応を得ようと、コンペの形で何種類か色違いのバスを走らせたことがある。結局は落ち着いた緑色に決定したのであるが、岡本太郎の赤と黄を基調としたデザインのバスにはさすがに力強さを感じた記憶がある。
いま、落ち着いたとか力強いとか記したが、その感覚は世界的に正しいと言えようか。
つまり色彩心理学というものは万国共通なのであろうかということである。かつて欧米人に麻黄色を本のカバーデザインとして示したところ,その拒絶反応は大きかった。汚いというのが彼らの理由だった。日本人には渋い色と評価されている色が、である。この感性の違いは, その色を汚い, 渋いとした教育にあるのではないか。
納豆は「見た目が汚い」 と教育されていればそういう心理が働くのと同じに,ある色を見てこの色はこういう意味だと教わるからそう思い込んで育つのではないか。だから「蒼は藍ほど苦悩に満ちたものではないが,青ほどの爽やかさはない」などという表現に妙に納得してしまうのも教育の弊害だと思う。
ピカソや萩原朔太郎には, 赤の時代,青の時代は言うに及ばず蒼の時代,藍の時代がある。色の教育に左右されなかったこのような作家たちにして初めて, 「○○の時代」と後世の人間が名付ける作品群を残し得たのではないか。かれらが,もし色の意味する感情を知識として身につけていて作品をものしたなら,読者に深い感動を与えることはできなかったであろう。太陽が赤, 月が黄色というパターンを子供に教える愚は慎むべきでなかろうか。
高速道路を走っていると,防音壁の所々に「静かに」とあるのを見かける。これは一体何なのだろうか。「静かに」の文字は明らかにドライバーに向けてのものである。たしかに四六時中家の前を車が走るような所に暮らす人間には,車が風を切る音やエンジン音は耐えられないものに違いない。そして,その表示は付近の住民の安眠できないという訴えに基づいて出されていると聞いた。
しかし,車を走らせている人間に,この注意は何を期待しているのだろう。暴走族のようにエンジンをふかしながら走るなとか,カーステレオの音を大きくするなということであろうか。一般道ならこれも分かるが,場所は高速道路である。一瞬にして通過する車に対して「静かに」の表示は意味をなさない。航空機の離陸発進時の騒音に対して,その航空機に向かって「静かに」の文字を見せているのと何ら変わりはない。スピードを落とせば音量が下がるというなら「速度を落とせ」という表示をすべきである。
また,トラックの後部に「お先にどうぞ」と書いてあるのは納得がいくが,乗用車の後部に「小さな子が乗っています」とあるのは,一体何の意味があるのだろう。若葉マークがついていれば後続車はそれなりに注意をするが,小さい子供が乗っているからどうだというのか。病院や学校・図書館の傍では静かにするのは当然だし,訪問先で幼児が昼寝をしていると言われれば,それなりに気配りはする。しかし,子供を乗っけて走っている車に対しては,その中で子供が昼寝をしていようが読書をしていようが他人には関係がない。むやみにクラクションを鳴らすことが無くなっている現在,後続車はその表記を見て何に注意をすればよいのか。それともあれは,うちの子はとても可愛いから追い越しをかけて一目見て下さいと誘っているのか。全くばかな表示だ。
そのうち,「老人が乗っています」「若い女性が乗っています」「外国人が乗っています」というものから「ガソリンンスタンドへ行くところです」「遊園地へ行くところです」などというものまで出来るに違いない。